「阝」の謎—「おおざと」と「こざと」って実は全然違うものらしい

今日は部首の「阝」についての話。右につくと「おおざと」、左につくと「こざと」という些細な違いですが、実はこの二つの部首は全然違うものらしい。

 

結論から書くと、左につく部首の「阝〇こざと」は、阜部(ぶふ)が簡略化したもので、右につく部首の「〇阝おおざと」は、村などを意味する邑が簡略化したものらしい。

 

こざとの起源になった「阜」は、甲骨文字の時点で「①丘や山の意」と「②梯子の意」があったようだ(ただ、現代日本では「阜」にはしごの意味は残っていないらしい)。

①の意味で作られる漢字には陵、阻、障などがある。「陵」は丘陵とかで使われるから分かる。「阻」「障」はどうなの?と思うけれど、どうやら山や丘が道を行く人の行く手をんだり、更新に差しりがあるというところからきているようだ。

②の意味で作られた漢字には、降、階、陥などがある。これなどは梯子から連想できる上下の移動の意味があるので分かりやすいが、実は限や際なども言語学的には「はしご」の意味から来ているらしい。ちょっとよくわからなかったのでここは読者各位で専門書を読まれたい。

 

おおざとの起源になった「邑」は、古代中国史で出てくる周囲を壁でかこまれた聚落にも使われている。最近ではわずか10歳にしてプロの棋士としてデビューした仲邑菫(なかむらすみれ)ちゃんなどの苗字でも話題になった。

郊・郡・部・都など…確かに一見して村や町、人が集まる場所にかかわる漢字が集まっていて分かりやすい。

 

が、ちょっとわかりにくいものもある。郵便の「郵」と、人の名前に使われることのある「郎」はどうなんだろう。

調べてみると、実は「郵」にはもともと、「文書・命令などを運ぶ人や馬の宿泊・休憩の為の施設。また、文書・命令などを運ぶ人や馬を替える施設」「旅人の宿泊場」の意味があるらしい。現在ではこの前者の意味が強まって、「郵便」の文脈で使用される熟語がほとんどになっているようだ。

では「郎」はどうなんだろうと思ってネットで調べたら、郎は元々、「良」が良い穀物だけを選びだす為の農業器具。そして「阝」が場所であり、良い村を意味し、それが転じて、「良い男」を意味する「郎」という漢字が成り立ったのだそうだ…。

「村」が「男」に転じるというのはちょっと語源的に怪しい気がするので、ここも専門家の本に読者各自で頼ってもらいたいところである。

カルボナーラの語源のはなしー「アメリカの軍人がベーコンと卵を入れたがったから?」

きょうは午前に悲しい記事を書いてしまったので、夜に面白い語源の話を一つ。

 

カルボナーラの生まれは諸説あるが、多くはラティウム地方に起源があるとしている。1930年に出版されたイタリア料理本には記載がなく、第二次大戦後になってから登場している。

 

1944年の連合軍によるローマ解放で、アメリカ軍が持ち込んだベーコンや卵が流通するようになった後カルボナーラの名前が現れており 、 アメリカ兵が親しむ卵、ベーコン、スパゲッティを使った料理としてイタリア人シェフが考えたという説がある。

 

語源自体は薪から木炭を作る炭焼き職人(carbonai、ローマ方言でcarbonari)の考案だからというものがあるが、アメリカ軍人の食の好みに合わせて炭焼き職人が考案したという可能性もあるので、上記の説と対立するわけではないと思う。

 

「炭焼人 (Carbonara) が、もしも仕事の合間にパスタを作ったら、手に付いた炭の粉が落ちてこんな風になるのではないか」という想像から黒コショウを絡ませ創られたパスタという説もある。これは料理サイトなどで書かれていることがなぜか多かった。炭の粉を黒コショウに見立てるのはちょっとどうなんだろうと思ったが…

 

――エキ 2022年7月9日.

安部元総理の訃報に触れて、ソーシャルメディア投稿について考えること

昨日、安部元総理が奈良県で演説中に銃撃され、午後5時には病院で亡くなったことが確認されました。とてもショックを受け、悲しく思いました。

私は安部さんの政治や思想に、あまり首肯できない立場の人間でした。しかし、それでもこれほどショックを受け、悲しいと感じたニュースは、23年間の人生でほかにありません。

毀誉褒貶のある方ではありましたが、これは政治的・思想的な立場を超えて、人として悲しみを感じる出来事でした。

謹んで、お悔やみ申し上げます。

 

――

 

そのうえで、私は安倍さんが亡くなったことに纏わるSNS(ソーシャルネットワークサービス)上で流布/主張された極端な言説と、テレビでの事件の報道の在り方について考えたいと思っています。

 

箇条書き的になりますが、どうか読んでいただければと思います。

ただ、誰にとってもショックの大きい事件ですので、心に負担がかかると思った方は、途中でブラウザバックしてくださいませ。

 

 

 

〇山上容疑者が元海上自衛隊であったことは報道すべきだったか?

一つ目に考えたいことは、「山上徹也容疑者が、元海上自衛隊員であったことは報道すべきだったか」という問題です。

山上容疑者が元海上自衛隊員であったことは、報道されるべきではなかったと私は思っています。

山上容疑者が海上自衛隊員であるということを受けて、「容疑者は自衛隊勤務時に自作銃の作り方を学んだのでは?」「なぜ基本的に保守的な立場であるはずの自衛隊員出身者が、元総理を銃撃するのか?」「容疑者は反日教育をその後どこかで受けたのではないか」などと、

様々な、全く根拠のない憶測がネット上で飛び交いました。

 

尤も、元海上自衛隊員であることが報道されなかったとしても、ある程度の憶測は飛び交ったと思います。加えて、殺人事件が起こったときに犯人の思想や信条について、落ち着いて検証するというのは大切なことです。

しかし、その検証はあくまでも「落ち着いて検証」ができる時間と情報リソース、職業的使命を持っている人間(警察、公安、報道機関の者)に限るべきではないかと思います。つまり、本来こういう情報は私たち一般市民には開示せず、少なくとも1年ほどの猶予期間は持たせるべきではないかと思うのです(1)。

私たちは重大な殺人事件が起こったときに、事件の犯人と自分の間には心理的な距離、共感しえない溝があると思いたがります。そして、過度に事件の犯人の生い立ちや環境に殺人犯になった理由を求めがちです(2)。よく殺人事件などで犯人は「無職」であるとか、「自称○○業」であると報道されることがあります。

実際、そのようなステータスにある人が殺人事件を起こしやすい傾向があるにはありますが、それを大々的に報道するのは、情報を収集す術も、時間も職業的使命もない素人の憶測を生み出すことになるので、やめるべきではないかと思うのです。

 

 

 

 

〇今回の銃撃と選挙とのかかわりついて、私たちはどう考えるべきか

昨夜、政治家の小沢一郎氏が次のようなツイートをし、炎上しました。

 

www.sankei.com

曰く、安倍総理が亡くなったことは選挙において自民党に同情票があつまるという意味で有利に作用するという主張です。

これを受けて、ネット上で多くの人が小沢氏の主張には怒りを表明しました。そして、私自身も、ツイートなどはしませんでしたが怒りを憶えずにはいられませんでした。

人が一人亡くなったのだから、せめてもう少し慎重に、言葉を選んで発言できないのでしょうか。

 

ただ、ここで落ち着いて考えたいことがあります。歴史上の様々な選挙を分析するに、党のリーダー、あるいは影響力を持った人間が殺害ないしは重大な事故に見舞われた後の選挙では、その被害者の属する党に同情票が集まることは科学的に証明されているということです(3)。小沢氏の主張は科学的には間違いではないということです

(これは多くの人が感情的に反感を覚えることであると思います。除光エキの言っていることが間違いだろうと思う方は、参考文献(3)を読んでください)。

 

では、小沢氏はどう発信すればよかったのでしょうか。

 

「私たちはその歴史から学び、政治リーダーの悲劇と政治は分けて考えていこう」と、前向きに発信すればよかったのではと思います。

 

安倍氏のこの災難は、むしろ自民党に有利に作用するかもしれない」という言葉で、しかも岩手県の街頭演説で述べるべきだったでしょうか。私はそうは思いません。

 

他にも極左の人間から発されたもので、「今回の選挙は安部元総理への弔い合戦になる」だとか、「日本人は感情的だから今回の事件を受けて、自民党に入れてしまう」だとかの言説が蔓延りました。「○○人は○○的」という言説の多くは、極右の人間から発される言葉も含めて根拠のないデマゴギーなので、真に受けないようにしたいところです。

 

なぜ、人の死と政治を分けて考えようと、前向きな言葉で発信することができないのでしょうか。

 

私自身も感情が昂って散文的になってしまいすみませんが、極右の人間から発された言葉で、本当に弔い合戦にしようという趣旨のツイートも見かけました。

 

 

全く持ってふざけた言葉だと思います。

感情に訴えかけて、無理矢理バズを生み出したいだけの言説なので、読者の方はこのようなツイートを真に受けないでください。

安倍総理を弔いたい気持ちは分かりますが、そのように「殉死」として今回の安倍元総理の死をとらえるのは、安倍総理へのきわめて下劣な侮辱に他なりません。

 

 

〇他の論点

他にも様々な論点がありますが、時間が無くなってしまったので、ここでは箇条書き的にほかの論点と私の主張を述べておきたく思います。

 

・SPの警護が手薄だったと非難されるべきか?⇒非難されるべきではない。容疑者は確保されるまでずっと冷静な様子で、事件を起こそうなどとは誰も思えなかったことが報道から読み取れる。

・事件の場に居合わせた方の顔を出してインタビューをして良いのか⇒すべきではない。「条件反射」といって、極度の緊張状態に置かれた人間は笑ったような顔になってしまうことがあるが、これでインタビューを受けた若い子たちが非難されることなどあってはならない。

・「散弾銃」という表現も、本来は使うべきではない。本業で散弾銃を持っている人への非難に繋がりかねない。あくまでも「自作銃」という表現にとどめるべきである。

・報道機関は「3Dプリント事業」をやっている会社に安易に取材すべきではない。そもそも今回の事件はホームセンターなどで取り揃えられるパイプや発火装置などを使ったものであるため、3dプリント事業者に電話取材を試みるのは、情報収集の努力不足も甚だしい。(だからといって、ホームセンターに取材するのもお門違いだが)

・奈良医大へのクレームやは即刻辞めるべきであり、奈良医大での手術に当たった医者の方への取材は、社会紙や政治紙のド素人の記者ではなく、医療に詳しい記者に任せるべきである。これは本庶佑さんがノーベル賞を受賞し、社会紙の素人記者が取材にあたって本庶さんを怒らせていた時にも感じたことだが、政治や社会の文脈であるからと言って、その筋の記者が取材をするのは必ずしも適切ではない。

 

 

 

 

――

 

(1)これは殺人事件の犯人の思想や政治信条についての話です。これと別に、殺人事件において亡くなるまでの過程については、誰が見ても解釈が一致するところですので、一般市民に情報が開示されても問題はないと私は考えます。

(2)エイミー・C・エドモンドソン『恐れのない組織――「心理的安全性」が学習・イノベーション・成長をもたらす』  2021/2/3,

綿野恵太『みんな政治でバカになる』2021/9/28.

(3)井出英策ほか『大人のための社会科』2017,佐々木毅『現代アメリカの保守派』1993.

僕がゲーム実況をしているときにいつも考えていること

僕はどんな時でも二項対立を欲しがった。戦うこと、競うことを思い切り楽しんでから、脱構築主義者みたいに二項対立そのものをずらしていく作業が好きだ。——槙島聖護

 

私はYouTubeでゲーム実況動画を投稿する、いわゆる「配信者」として活動している。そこではあんさんぶるスターズ!!という、可愛くもカッコよくもある男の子のアイドルたちが出てくるゲームをプレイすることが多い。

 

以前、一人の視聴者の方から「除光エキ(私のユーザーネーム)さんはふだん配信をされている時に、どんなことを考えているんですか?」と聞かれたことがあった。そこで、今回は私がゲーム実況をしている際に、頭の中でどんなことを考えているのかを詳述したい。

 

――

 

除光エキがゲーム実況をしているときに考えていることは、主に「娯楽としてのエロティックな言説はどこまでが許容され、どの程度常識的なユーモアを脱構築することができるのか?」——そして「YouTubeにおいて社会的に構築されてきた笑いのセンスを、どの程度一人の人間が解体できるのか?」ということに尽きる。

 

少し難しいことを言ってしまったので、まずはここで使われている「構築」「脱構築」という言葉の意味について説明したい。

 

「構築」とは、ここでは構築主義のことを指している。構築主義とは、「現実に存在していると考えられる対象や現象は、客観的もしくは物理的に存在しているのではなく、人々の認識によって社会的に構築されていると考える社会学の理論的立場」のことである¹。たとえば、好意を寄せる相手をつけまわす行為を「純愛」として人々が認識していれば問題にならないが、それを問題視する人や団体がクレームを申し立て、そのクレームによって人々が「問題だ」と認識することで「ストーカー」が社会問題として構築される²。

 

YouTubeの笑いというのは、常に人気なクリエイターが社会的に構築してきたものであり、率直に言って私はあの手のユーモアが好きではなかった。分かりやすい笑いには面白さがなく冗長で、30秒のショート動画にすら辟易してしまうほどだった。

 

そこで私は考えた。この一見堅牢に見える「YouTubeの笑い」を、社会的規範から少しずつ逸脱しつつ解体することはできないか、と。

 

例えばそれには、音声を中心にして構成される文字列の優位性、ロゴス中心主義、男根中心主義を、その反対に位置するものでアウフヘーベンするのではなく、むしろ社会的規範事態を解体しようとしたジャック・デリダ精神科医ラカンの知的営為がヒントになる。二項対立の階層秩序を打破し、ずらし、差異を生み出し続けることで、YouTubeの浅薄な笑いは何の意味も持たなくなるのではないか?それができた時に、YouTubeはプラットフォームの終わりを迎える。ビッグテックを解体し、インターネット2.0の勇士たちが夢見た民主主義を、実現することができるのである。東浩紀、お前もこれがやりたかったんだろう?

 

では、YouTube社会的に受け入れられているユーモアとは何なのだろうか?端的にいえば、わかりやすく、陽キャ的で、短い時間で完結する、難しい言葉は使わないなどである。ではこの笑いを解体するにはどうしたらいいか?

 

単純にこれらの要素の逆を全て取り入れるのでは、人気も出ない。

 

そう思った私はどうしたかというと、陽キャ的要素と陰キャ的要素を取り入れたり、取り入れなかったりした。そうすることで、視聴者は私という人間の実態をつかみ損ねる。しかし、そこにはある意味でのユーモアだけが浮遊する。沈殿していく。視聴者が勝手に私の意図を測って、陽キャ陰キャ、わかりやすい笑いとわかりにくい笑いの水溶液をかき混ぜてくれる。

 

この水溶液に、100万人のチャンネル登録者数がついたときが、YouTubeと人気YouTuber、お前たちの最期だ。

 

首を洗って待っておけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事に書かれていることは全てが冗談と嘘であり、本当はゲーム実況をしているときは「おちんちん」としか考えていないのである。

 

【参考文献】

1.平 英美『構築主義社会学実在論争を超えて』

2.コトバンク構築主義 こうちくしゅぎ」